佐賀唐津焼 中里太郎右衛門さんに聞く

佐賀唐津焼 中里太郎右衛門さんに聞く

「作陶四十周年記念 十四代中里太郎右衛門展」

11月に開かれた大丸福岡天神店の会場で当主から話を伺う機会があった。これまで何度か唐津の陶房でお目にかかり、公開イベントに参加して、唐津焼や中里家の話を聞いた。素朴で飾らない人柄の当主から伺った話の一端を紹介したい。

 

陶房の達磨さん

唐津駅から徒歩5分の距離に陶房がある。陶房の門を抜けるとまず目に入るのが怖い顔をした達磨さんの焼物だ。

「あれは11代の陶彫です。江戸時代の中里家は唐津藩に献上する陶器を作っていましたが、明治維新で藩がなくなり、江戸末期に生まれた11代は、動物や人物などの陶彫を主に残しました。その後、12代が17世紀初めの古唐津の技法を復活させ、絵画表現に優れた13代がそれを発展させました。そして、22年前、私が中里太郎右衛門を襲名しました。」

陶房には13代・14代の作品が展示され、上皇ご夫妻が陶房を訪れた際の写真も飾ってある。

 

御茶盌窯記念館の古唐津

陶房から道を挟んで4年前にオープンした御茶盌窯記念館には古唐津の陶器が大事に展示されている。

「唐津の陶工は豊臣秀吉の朝鮮出兵の前、桃山時代に朝鮮から渡ってきたと言われています。当時の陶工たちは当初は望郷の念もあったかと思いますが、次第に落ち着いたんでしょうね。古唐津の作品には自由奔放で伸びやかなものが多く見られます。最近、唐津には若い陶芸家が移住して来て、窯を始めているでしょう。実は、彼ら彼女らは古唐津に魅力を感じて、この地に薪窯を開くんですよ。今では70ぐらいの窯ができています。」

 

江戸時代の登り窯

敷地内には江戸時代に使われた登り窯がある。見学していた時、脇の草藪の道から当主が忽然と現れびっくりしたことがある。その姿が周囲に溶け込み、何百年も前の陶工がタイムスリップして出てきたかのように感じたからだ

「登り窯の隣には人間国宝だった12代、中里無庵の工房をそのまま保存しています。私もそこで作陶します。今の登り窯は裏手にあり、普段はそこで職人たちと一緒に仕事をしています。」

現在使われている登り窯は昔のものと比べ、規模は何倍も大きく、窓外から眺めた工房には制作中の器が数多く並べられてある。

 

中里家の伝統は?

中里家は家族で海外にもよく出かけるようだ。

「そうですね、先代も古いものが好きでね。海外に出て現地に着くと、みんな我先に骨董屋に行きます。そこで一番良いものを見つけた者が勝ちなんですよ。そうしながら、真贋を見分ける目を身に着けたと思います。唐津焼なら一目見てすぐに本物と偽物の区別はつきますよ。そして、本物を作るのには自分を磨くことが大切なんですね。心を磨くとそれが作品に移る。先代からそうしたことは自然に教わった気がします。」

中里家の作風は各世代で変化する。四百年も続く家系でありながら、伝統を自由に解釈して継承する姿勢が保持されているようだ。

 

器を通じたコミュニケーション

御茶盌窯記念館では、唐津の料理人を呼び、当主が主宰する食事会が開催されている。

「器は飾るだけでなく、食事で使ってもらい、どう日常に溶け込むかに関心があります。唐津の旬の食材を使った料理を出し、唐津焼の器で楽しんでいただく。器を通したコミュニケーションを大切にしています。自分が焼物を楽しんで作り、他の人もそれを喜んで使っていただくのは嬉しいですね。唐津焼は、作り手八分、使い手二分、と言います。年月を経て器に味わいが出てきます。そうした楽しみ方も知ってもらいたいと思います。」

 

唐津焼は再来年430周年を迎える

今回の展示会のあいさつ文には「もう何にもこだわらなくてよい、近頃そう思うようになりました。これからもっともっと謙虚に生きたいと思います。」と書かれてあった。

「海外ではヨーロッパやアジア、国内では各地で弟子たちが活躍しています。弟子たちと交流したり、唐津焼を海外に向けて発信していきたいですね。再来年に唐津焼は430周年を迎えます。色々と計画していきたいと思います。」

目を輝かせて将来の展望を語る14代。その新境地が作品として、また、唐津焼全体にとって、どのような展開になるか楽しみだ。

 

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